沢田研二さんのドタキャンに思う事
客席が埋まらないという理由でさいたまスーパーアリーナでのコンサートを当日キャンセルした沢田研二さん。
沢田研二さんには沢田研二さんの考えというか哲学があるのだろうけど、僕がとても嫌なのが沢田研二さんのドタキャンに寄って誰も幸せになってない事。
さいたまスーパーアリーナという大きな箱をとった興行側にも問題があるのかもしれません、もしかしたらそれ以外に大人の事情があるのかもしれません、でもそれは沢田研二さんのコンサートを楽しみにしていたファンには全く関係ないでしょう。極論を言えばお客さんが一人でも手を抜かずにパフォーマンスを見せるのがプロだと思います。
音楽って人の心を豊かにする為に存在する物だと僕は思うのです。
沢田研二さんがコンサートをドタキャンした事で、人の心を豊かにするどころか多くの人を悲しませてしまった事がとても残念です。
川崎の名店太陸のチャーメン。
川崎の仲見世通りの外れにある街中華の老舗である太陸さんで軽く飲んで食事をしてきました。
太陸さんは早い時間帯のおもてなしセットがとてもお得です。
今日は生ビールと茹で餃子で、サーバーを清潔にしているのでしょう生ビール美味しいです。
ニラが多めな茹で餃子も皮がモチモチして美味しい、ちなみに川崎餃子味噌は僕は苦手なので使いません。
喉を潤した後は川崎南部が誇るソウルフードのチャーメン。
ここのチャーメンは麺を軽く湯通ししているようで麺が柔らかめで味が若干濃いめ。
それと一般的なチャーメンに比べると野菜の比率が少ないです。
これは自然災害による野菜の価格の高騰と関係あるのかもしれませんが、個人的にチャーメンは野菜が半分近くを占めているのが理想です。
チャーメンに関しては川崎駅前の成喜の方が好みでした。
あまり時間が無かったのでビールをもう一杯飲んで会計したら¥1300とコスパ高いです。
壁じゅうに飾られた有名人のサインを見ながら一杯やるのも乙かもしれません。
モダンジャズにおける数学と文学の要素
パリでのジャズマンの日常と友情を描いた名作「ラウンドミッドナイト」の中でデクスターゴードンが演じるディルターナーがテナーサックスで「As time goes by」を吹いていると「歌詞を忘れてしまった」と吹くのを止めてしまうシーンがある。
僕なりの解釈だがジャズは理論より心の情景を重要視するべきだと示唆したモダンジャズにおける文学の要素を端的に表現した美しいシーンだ。
ただその一方で伝説のベーシストであるジャコパストリアスは、こんな言葉を遺している「音楽は紛れもなく魂の奥底から生まれてくる物だが、それを取り出し形にするのは数学だ」
僕はこの数学の要素にいつだって魅せられてきた。
なぜこの音がこの和音の上でこんなに美しく響くのか、本来ならこの和音のはずなのに何故別の和音を使う事ができるのか。
いつだって僕の好奇心を刺激するのは、モダンジャズにおける数学の要素だった。
逆の言い方をすれば文学の要素を疎かにしてきたと言ってもいいだろう。
これは僕が比較的だが数字に強い事も関係していると思うが、やはり僕が異常なまでの人見知りと恥ずかしがり屋なのが理由なような気がします。
僕がジャズのスタンダード特にバラードを吹いている時に歌詞を頭に浮かべているかといえば答えは否だ。
演奏中の僕の頭には調性や和音や音階の事など、モダンジャズにおける数学の要素がほぼ頭の中を占めている。
これは僕に限らず殆どの管楽器奏者が同じだと思う。
正直にいい歳した大人がラブソングの惚れた腫れたを意識しながら喇叭なんて吹けるかいな、そんな小っ恥ずかしいというのが以前の僕でした。
ただ最近はトランペットという楽器で感情を表現する、トランペットを歌わすという意味においてその文学の要素が僕の音楽に足らなかったような気がするんです。
ケニーの憂鬱
日本国内においてなぜこんなに過小評価されているのか首を傾げたくなるジャズトランペッターがいる、とてつもないスケールと技巧を持ち、高い作曲能力を兼ね備えた素晴らしいジャズマン。
その人の名はケニードーハム。
ケニードーハムの特徴は、独特なダークな音色、レイドバック気味なタイム感、そしてコンビーネーションオブディミニッシュスケールを多用する事があげられる。
ロイハーグローブやティルブレナーのようなトップトランペッターが強い影響を受けたと公言している事からも欧米では日本国内より高い評価を受けている事がうかがい知れるだろう。
日本国内ではケニードーハムの影響を強く受けているジャズトランペッターに関西が世界に誇るハードバッパー唐口一之氏がいる。
日本国内のケニードーハムの過小評価に関して理由の一つがケニードーハムの実は異色作である「quiet Kenny」を当時のジャズ評論家が代表作として持ち上げてしまったことにあると私は考える。
「静かなるケニー」という秀逸な邦題がつけられたこのアルバム、勿論素晴らしい内容だが熱い熱気を喇叭から放つ技巧派トランペッターであるケニードーハムがもつ静の一面だけを切り取ったに過ぎない。
この素晴らしいジャズトランペッターが日本国内の評論家によって四畳半ジャズという意味が分からないレッテルをはられてしまったのは悲劇としか言いようがない。
ケニードーハムは「静かなるケニー」しかきいたことがないジャズファンがいらっしゃるのなら是非ケニードーハムの別の作品も聴いたいただきたい。
ブルノートレーベルで録音された作品は、どれも素晴らしい内容のハードバップを堪能することができます。
「静かなるケニー」も決してわるくありません、ただケニードーハムの本質は「静かではないケニー」にあるのです。
チャーメンの思い出。
歌舞伎町のある飲み屋さんにチャーメンを差し入れした。
チャーメンとは川崎南部のソウルフードのひとつで中太の平打ち麺を塩味ベースに化学調味料でパンチを効かせた野菜が半分ぐらいを占める焼きそばと野菜炒めの中間に位置するようなまあジャンクフードです。
このチャーメンには、ちょっとした思い出がある。
僕は小学校低学年の時に算盤塾に通っていた、当時は子供の習い事としてはポピュラーなものだった気がする。
その算盤塾が終わり外に出ると亡くなったおじいちゃんが待っててくれる時があった。
酒飲みというよりアル中に近いおじいちゃんの片手にはワンカップ大関かデルカップがあり。
僕を待っている間に一杯始めてる有様だった。
川崎駅前でクラブを経営していた祖父はロマンスグレーの頭髪にサスペンダーがトレードマーク。
ダンディなおじいちゃんが僕は少し自慢だった。
おじいちゃんが算盤塾に迎えに来てくれた時はいつも二人で同じ中華屋に行った。
僕はいつもチャーメンを食べた。
男の割に口が小さい僕はいつも口の周りにキャベツやニラの切れ端をつけ、それをおじいちゃんがいつもおしぼりで取ってくれた。
余談だがこの頃から僕は気に入った食べ物があるとそればかり食べ続ける、なにぶん発達障害的な要素があったようだ。
おじいちゃんは搾菜をつまみに紹興酒を飲み酔っ払うと必ず店主に向かって孫である僕の自慢話を始めた。
可愛くて頭が良い自慢の孫だとか、大きくなったら天下を取るんだ。
そして折り合いが悪い義理の息子つまり僕の父親の悪口を言った後に「アメリカをやっつけて、おじいちゃんの仇をとってくれ」と酒に酔い赤らんだ顔で言うのが常だった。
あれから随分と時間が経った、僕は当然だけどアメリカをやっつける気など全くないノンポリの平和主義者のどうしょうもない酒飲みになり。
天下を取るどころか音楽の才能こそ多少あるのかもしれないけど、それ以外のことに関してはまあ真面目なだけが取り柄のつまらない人間になってしまった。
とても女性にモテた祖父の血を引いているというのに、そちらも全く駄目で不器用そのものだ。
現在の僕を見ておじいちゃんは、どう思うのだろう。
目の前では飲み屋の可愛らしい女の子がチャーメン を美味しそうに幸せそうに食べている。
彼女の唇の端にキャベツの切れ端が付いていた。
そんな微笑ましい光景を見ながら、僕はおじいちゃんの事を少しだけ思い出していた。
ラブホ女子会
僕は最寄りの駅がJR川崎駅です、先日都内に用事があったので上りの東海道線に乗り車窓から川崎の繁華街を見るとラブホテルに大きな弾幕が掛かっていた「ラブホ女子会受付中」そして楽しそうに酒を飲んでいる女性の写真。
女子会という言葉が定着して10年ほどかいやもっとだろうか、それにしても日本社会における女性の勢いを感じて嬉しくなる。
以前に読んだラブホテルの経済学のようなタイトルの本によるとラブホテルというビジネスは回転数の高さと原価率の低さから意外と安定したビジネスだという。
そのラブホテルでさえ手を替え品を替えという時代なのか。
残念ながら僕には一緒にラブホテルに行くような女性は、いないのだけどもし異性とラブホテルに行った際にラブホ女子会の女性達とエレベーターなので鉢合わせたら男は気まずいですよね?